【被災地からのコラム】10年前の『絆』 津波で流されなかったもの 朝日新聞仙台総局・中林加南子
三陸海岸の南端、宮城県の牡鹿半島に女川町野々浜という集落があります。かつてここにあった女川第四中学校の卒業生たちが、大震災をへて10年ぶりに再会しました。 昨年11月14日午後、中学校の跡地に集まったのは元生徒や先生17人。10年前に埋めたタイムカプセルを掘り起こすためです。
降りしきる雨の中、男性陣が交代でスコップを握りました。見つかるかは神頼み。集落全体が津波にさらわれたからです。四中は震災の前の年、閉校になっていました。残っていた3階建ての校舎も水につかり、解体されました。違う学年が埋めたタイムカプセルは、流されて見つかりませんでした。
記憶を頼りに掘り続けて20分。高台に植えた桜の下から、長さ30センチほどの銀色のカプセルが見つかりました。中には10年後の自分に宛てた手紙やDVD、写真が入っていました。
写真説明:ようやく見つけたタイムカプセル
場所を移し、DVDを見ました。ある劇の映像が収められていました。
戦後60年の2005年、四中の全校生徒15人は、地元の戦争について調べました。牡鹿半島には海軍の防備隊がおかれ、海防艦や嵐部隊と呼ばれた特攻隊員らがいました。終戦直前に女川は空襲を受け、200人の命が奪われました。
15人はそんな歴史を学び、元隊員に話を聞きました。部隊を題材に劇をつくろう。3人の3年生が台本を書きました。1年生だった石森智耶さん(22)は「『同じくらいの年齢の人が戦争に参加した時代があったんだ』と驚いたのを覚えています」と振り返ります。
写真説明:「自分たちは、生きているだけでしあわせだ」の文字が残るシナリオの下書き
劇では空襲の場面をはさみ、最後に生徒たちが考えたメッセージが流れました。
「僕たちは今生きています 幸せです」
2年生だった木村倫子さん(23)は震災後、その意味をかみしめるようになったといいます。家は流され、1カ月近く家族と連絡がとれませんでした。変わり果てた故郷の姿を今も受け止めきれません。それでもこの日、家族のような仲間と楽しく再会できました。「生きていることと幸せがつながるようになりました」
家、ふるさと、大切な人……。多くのものが流されました。カプセルに入っていた懐かしい写真にスマホを向けて、「家にあった写真はなくなったから」と撮る卒業生たちの姿には、胸を締め付けられました。
写真説明:見つかった写真の写真を撮る
震災後に地元を離れ、京都で働く石森千尋さん(24)は小中高とも校舎が被災し、母校がありません。「行きたいと思っても形がないのは寂しい」と言ったあと、「でもこうやって会える人がいる」と笑顔で付け加えました。
みんなで演じた劇の題は「絆」でした。震災後にあふれた言葉ですが、使い方は難しい。でも、いつまでも話している四中のみんなの笑い声を聞きながら、会いたい人がいて、会えば元気になれる仲間がいる、こういうつながりのことなんだと思えました。
写真説明:自分が書いた劇のシナリオに再会し驚く卒業生
ヘッダー写真説明:タイムカプセルを掘り起こす卒業生